
2008年10月16日
『君が見た夢のなかでは』

ひとりになって三か月。
今でも時々、君の夢をみるけれど、やっぱりいつもケンカしていたり別れ際だったり、別れたあとであったり。
今ではもう、声が思い出せない君。
寂しいとかひと肌が恋しいとか、他に誰もめぼしい人がいないとか、イベントが近いからとかそんな打算ともつかない馬鹿馬鹿しい理由も、今ならわからなくもない。
でもやっぱり、今でも「あぁするしかなかったんだ」と、何度も考えてみても結局のところ行きつくところは同じ。
イライラするケンカをした夢をみた後、やっぱり起きてからもイライラしていて、憎らしくて、もう好きじゃないんだって自分でも納得してしまう。あるいは自分にそう言い聞かせる。
何度も何度も、数えきれないケンカをして、数えきれない涙を流して、傷ついて、同じくらいきっと傷つけて。
「どうして好きになってしまったんだろう。どうして、好きな人を嫌いになるために付き合うワケじゃないのに」
別れて、一人になって、誰の目もない気ままな生活をしているうちにすっかり鈍ってしまった重い自分の体と心に、自己嫌悪に陥ったりしながら。
それでも「あの頃は幸せだった」なんてまだ嘘でも言えなくて、友達の結婚式で幸せそうな新郎新婦をみて自分も温かい気持ちになったり、でも自分は付き合うとか結婚とかよくわからなくて、憧れもなくて、けれどもう辛くて泣いたりもしないし、おもしろいテレビを見て笑ったり、家族や友達と世間話をしたり、結婚のお返しにもらった植木鉢の四つ葉のクローバに水をやって、日々成長する植物の強かさに驚いたり、小さな部屋の窓から見える外の景色が刻一刻と冬へと向かっていく様子とか、そんな『普通』と言える毎日がびっくりするくらい穏やかで、同時に、死にたくなるほど苦しい。
あんなに感情的だった日々を、劇場的に愛した君を、思い出すことも日に日に少なくなってきている。
人間って、なんて胡散臭い生き物なんだろう。なんて移り気で、ずるくて、強かで、なんてなんて、憎らしい。
しかし、そうしてしか生きていけない、生き延びれない、子孫を残せない、そんな悲しい生き物でもあるから。
繊細さゆえに絶滅していった動物たちに淡い想いを馳せて、少し、鈍感な自分たちの行く末を案じたりする。
それこそ、一生懸命に毎日を生きている人々に対する『自分』という人間からの冒とくであるとも知らず、いや、知っているけれど止めることのできない、永遠とも思える退屈な時間がそうさせる、悲しき『自分』の現状なのだと、冷静なもう一人の自分が分析する。
昔、時間つぶしにとたまたま手にとった聞いたこともない名前の著者の本を、なんとはなしに本屋の店頭で斜め読みしていた時ふと目に止まった言葉が、今でも鮮明にあたしの中に残っている。
「結局、ぼくたち人間にできることは、愛する人を愛し、明日の天気と幸福を祈ることだけなのだから」
そのとおり。頭脳や腕力や、経済力もなにもなく、ただ最後に人間にできることはそれだけなのだと思う。
そして、今のあたしにできるのは、自分の愛した人がみる夢のなかでくらい今の自分よりも美しくあればいい、幸福そうであればいい、そんなことを祈るだけ。
過ぎた時間のなかで血肉を通わせ経験したことのすべてが、言葉に変換すれば実に薄っぺらい紙の上、あるいは画面のなかでいつでも「なかったことになる」Web上で、ほんの数百文字・数千文字・数万文字になって量産され、コピーされ、消費されてしまう。
そしていつか自分も知らないようなどこかの誰かの記憶の片隅にほんの僅かな欠片だけを残すか、あるいはその欠片すらも残さず消えてしまうかのどちらかでしかない。
空しい、という言葉すらが虚しくもなる。
願わくば、あの日々を、想い出が美しいもののようにしてくれますように。
そうしてまた、ふたりが次へと進む勇気を、機会を、ふたりが見逃しませんように。
また、誰かを愛せますように。
ただただ、切に願う。
森儀